人見街道(ひとみかいどう)

当店の北側の都道が人見街道です。久我山あたりから、東府中の航空時自衛隊基地まで
続いている道です。さらに北側には、新人見街道のバイパス計画もあり、
「平成17年までに完成または着工」という計画になっています。

当店より西に人見街道を移動し、若松町あたりになると当時を忍ばせる巨木のある旧家が
立ち並んでいます。これらの巨木は市の指定の保存樹木になっています。(左の写真)
私の子供の頃は、並木のようになっていたのですがだんだん減ってきました。

人見街道と浅間山通りの交差点に、人見街道の石碑(右の写真)があります。
以下にその碑文を転載します。

「人見(ひとみ)の集落は、現在の若松町3.4丁目の一部(人見街道沿い)に
中心があった村落です。古く、人見の集落は、街道筋ではなく浅間山の麓に
あったと伝えられています。街道筋に集落を開いたのは、
近世以降のことだそうです。幕末の地誌には、「
民家58件、府中路(人見街道)の往来に並居す」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。

 地名の起こりは、不明ですが、武蔵七党の人見氏一族が来住していたという説が
あります。あるいは、浅間山(人見山)が、遠くを見たり遠くからも望める格好の場で
あることから起こった名義かもしれません。
正平7年(1352年)に浅間山周辺で行われた足利尊氏と
新田義興・義宗兄弟の戦いが、有名な人見原合戦です。」

石碑より東に移動して、ちょうど当店の前あたり、左は昔の人見街道の写真です。
右の写真は、当店向かいの石屋さんの木村家さんです。先代(先々代?)の建てたお店を大切に使われていますので、
昔の面影を残しています。とても趣のあるお店なので、ドラマの撮影に使われたこともあります。

 

近藤勇の生家・道場跡

人見街道を当店より東、三鷹方面にいき、府中市と調布市・三鷹市の境になります。
この境目あたりに近藤勇の道場跡、生家跡、産湯の井戸跡等があります。さらにこの先に、
近藤勇の菩提寺である龍源寺があります。


左・生家跡、右・産湯の井戸


生家跡のおやしろ


道場の碑と道場

以下に、調布市郷土史保存会・近藤勇史蹟保存会の説明文を転載。

 「近藤勇昌宜は天保5年(1834)9月5日、武州多摩郡上石原村1909番地
(現調布市野水1丁目6番地の8)の豪農宮川久次郎の三男として生まれ、幼名は勝太といった。

 当時、江戸小石川川柳町に道場を構えていた天然理心流宗家3代目近藤修助は、
宮川邸内の道場に出稽古にきて、たまたま勝太の非凡な才能を認め、父久次郎に請い、
近藤家の養子に迎え、17歳で元服、名を勇と改め、後に天然理心流4代目を継がせた。

 文久3年(1863)2月、新徴浪士隊に応募し、のち京都守護職松平容保の配下に入り
新選組隊長として京洛の治安維持にその手腕をふるった。

 しかし、その後幕勢のおとろえ、鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶応4年(1868)将軍慶喜とともに
軍艦冨士山丸で江戸に帰った。

 慶応5年3月、甲陽鎮撫隊を組織し、隊長として甲州に出陣したが、時運すでに去り、空しく敗走、
下総流山(千葉県流山市)でついに官軍に降った。同年4月25日板橋刑場の露と消えたが、時に35歳。

 一念節義に殉じ、孤忠よく幕府の頽勢を支えようとしたが、志破れ波乱の生涯を閉じた。

 墓は近くの三鷹市大沢、竜源寺にある。」

   
龍源寺の入り口にある胸像と石碑

   
   龍源寺

新撰組副長・土方歳三の生家は、現在の日野市と府中市の境目にあります。
司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」(主人公が、新撰組副長・土方歳三の歴史小説)によれば、
彼は、ここまで毎日稽古に歩いて通っていたのですから、昔の人の健脚ぶりには本当に驚かされます。

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