天野 為之 |
経済学をフェノロサに学び、とくにJ・S・ミルを研究した。東京専門学校(早大)の創設に参加、以後その教職にあった。1890年大隈重信の改進党から第1回の衆議院議員に当選。町田忠治らとともに東洋経済新法を創刊した。 |
大正・昭和期の経済学者 |
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9区1種9側1番 |
上杉 慎吉 |
ドイツに留学、その憲法学説は穂積八束の影響が強く、君主主権による絶対主義をとる。「国体に関する異説」を発表し、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃、天皇制絶対主義勢力の理論的、実践的指導者であった。 |
明治・大正期の憲法学者 |
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3区1種3側9番 |
上田 貞次郎 |
ドイツ、イギリスに留学。帰国後東京高商(一橋大)の教授となり、その後身である東京商大学長となる。スミス、ミルなどのイギリス経済学の影響をうけた自由主義者で、新自由主義を唱えた。晩年には人口問題の研究に新分野を開拓した。 |
大正・昭和期の経済学者 |
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9区1種10側3番 |
大内 兵衛 |
森戸事件で東大を退いたが、復職し教授となる。教授グループ事件で有沢広巳らとともに検挙され、辞職。戦後東大に復帰。退官後、法政大総長。平和問題懇親会メンバーとして平和擁護や憲法擁護運動などにも活躍。マルクス経済学の立場から財政学を体系化する。著書に「財政学大綱」などがある。 |
大正・昭和期の経済学者 |
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6区1種11側11番 |
小泉 信三 |
渡欧して経済学を学び、帰国後慶大教授。「価値論と社会主義」を発表し河上肇らと対立、マルクス主義批判の立場を貫く。慶大塾長として大きな社会的影響をもった。戦後は皇太子明仁親王(現天皇)の教育にあたった。 |
昭和期の経済学者・教育家 |
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3区1種17側3番 |
戸川 秋骨 |
島崎藤村・北村透谷らと「文学界」を創刊。一方東大英文専科に学び、山口高校教授。その後欧米に留学、帰国して慶大教授となる。早くから翻訳家として知られ、「エマーソン論文集」や「哀史」(レーミゼラブル)「十日物語(デカメロン)」は広く読まれた。 |
明治期の評論家・英文学者 |
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21区1種24側16番 |
戸坂 潤 |
大谷大教授の頃、新カント主義的立場からマルクス主義的立場に移る。上京し法大講師となるが、思想不穏の理由で免職。唯物論研究会を創立、事務局長として、軍国主義に抵抗し、科学的精神を擁護、普及する運動に取り組む。治安維持法により検挙、長野で獄死した。 |
昭和期の哲学者 |
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25区1種18側32番 |
南原 繁 |
内務省退職後、渡欧、帰国して東大教授となり政治学を講じる。内村鑑三の無教会派プロテスタントで、自由主義的立場を守り戦時中も軍部に迎合しなかった。戦後東大総長。講話問題では吉田茂首相と対立。憲法問題研究会に参加、護憲の学問的支柱となった。 |
大正・昭和期の政治学者 |
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3区2種11側2番 |
新渡戸 稲造 |
札幌農学校卒業、東大中退後渡米、帰国後札幌農学校教授、京大教授、一高校長、東京女子大学長などを歴任。国際連盟事務局次長など国際人としても活躍。またクリスチャンとして国際親善に貢献した。著書に「農業本論」「修養」特に英文の武士道は有名である。 |
明治・大正・昭和期の教育者 |
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7区1種5側11番 |
藤田 豊八 |
東亜学院創立、通信教育を興し、江湖文学創刊。清国の学者羅振玉と東文学社設立、広州に赴き、広東、広西省の教育事業に協力、蘇州に師範学堂を設立。辛亥革命の際、羅を助け京大客員講師に迎える。再び広州に赴き嶺南日報創刊。帰国後早大、東大、台北大教授を歴任した。 |
明治・大正期の東洋史家 |
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3区1種34側2番 |
美濃部 達吉 |
渡欧後、東大教授、比較法制史(のち憲法)を担当。天皇機関説を唱えた。総帥権問題について進言、政府はそれにもとづき軍縮条約に調印。軍部の恨みをかった。機関説問題は政治問題となり、不敬罪で告発され、著書は発禁、貴族院も辞した。日本国憲法の草案の審議にたずさわった。 |
明治・大正・昭和期の憲法学者 |
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25区1種24側1番 |
美濃部 亮吉 |
美濃部達吉の長男。卒業後東大助手、講師をへて法大教授。人民戦線事件で検挙されて辞任。戦後東京教育大教授。東京都知事選に革新統一候補として立候補し、当選。1967年以後3期つとめた。 |
昭和期の経済学者・東京都知事 |
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25区1種24側1番 |
箕作 麟祥 |
祖父に蘭学を学ぶ。徳川昭武に随行して渡仏。維新後明治政府に仕え、太政官大書記、元老院議官、司法次官、貴族院議員、行政裁判所長官、和仏法律学校校長を歴任。わが国にフランス法を紹介・移入し、また民法・破産法・商法編纂委員となり、明治民法・商法編纂に貢献した。 |
明治期の洋学者・法学者 |
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14区1種2側2番 |
森 槐南 |
鷲津毅堂・三島中州等に師事。父からも漢詩を学び、明詩風の市を作った。随鴎吟社をおこし、諸新聞に健筆をふるった。宮内大臣秘書官、式部官を歴任。伊藤博文がハルビンで暗殺されたとき、随行していて負傷した。 |
明治期の古注学者・漢詩人 |
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14区1種3側3番 |
矢島 楫子 |
上京して教員伝習所に学ぶ。小学校、女学校教員、桜井女学校校長。キリスト教徒となり日本基督教婦人矯風会創立。女子学院院長。廃娼運動に奔走、国際軍縮会議参加。晩年も婦人参政権獲得期成同盟会に加盟、生涯を女子教育、婦人運動に尽くした。 |
明治・大正期の女子教育者 |
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3区1種1側20番 |
安井 てつ |
卒業後母校(東京女子高師)に勤め、イギリス留学、帰国して教授と舎監を兼任。イギリス再留学後、東京女子大の学監、学長を歴任。退職後東洋英和女学校校長となった。 |
明治・大正・昭和期の女子教育者 |
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15区1種10側7番 |
矢内原 忠雄 |
一高時代から内村鑑三及び新渡戸稲造に私淑し、信仰上、思想上大きな影響を受けた。東大助教授、教授となり植民政策を講義。1937年中央公論に発表した「国家の理想」が反戦思想として右翼、軍部等の攻撃の的となり、その年辞職。戦後東大に復帰、社会科学研究所初代所長、経済学部長、教養学部長を歴任し、総長となる。東大ポポロ事件の際は警察に対し毅然たる態度を示し、激動期の大学の自治と学問の自由を守るため努力した。 |
大正・昭和期の経済学者 |
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2区2種1側19番 |
吉野 作造 |
欧米留学後発表した「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」は大正デモクラシーの理論的基礎となる。朝日新聞社入社、連載記事が筆禍を受けて退社、明治文化研究会設立、また東大新人会、社会民衆党の結成などに活躍した。 |
明治・大正・昭和期の政治学者 |
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8区1種13側18番 |