学者(科学・医学・建築など理系)

   東 龍太郎
あずま りょうたろう(1893〜1983)

 ロンドン大学に留学、体育生理学を専攻。日本におけるスポーツ医学研究の草分けとなる。東大教授。戦後日本体育協会会長、IOC委員、茨城大学長。1953年東京都知事に当選。2期在任し、オリンピックの東京開催に尽力。日本赤十字社長、全日本スキー連盟会長、日本レクレーション協会会長などを歴任。

 大正・昭和期の医学者

 16区1種13側7番

  大賀 一郎
おおが いちろう(1883〜1965)

 八高教授をへて満鉄に入社。中国東北地方の普蘭店から出土した古ハスの種子を研究。戦後、千葉県滑川出土(約1千年前)と検見川出土(約2千年前)のハスの種子の発芽に成功、検見川出土のものは開花し、大賀ハスとして知られている

 大正・昭和期の植物学者

 20区1種33側15番

 木々 高太郎
きぎ こうたろう(1897〜1969)

 慶大教授をつとめた。海野十三のすすめで処女作「網膜脈視症」を発表、長編「人生の阿呆」で直木賞受賞。「新月」で探偵作家クラブ賞受賞。探偵作家クラブ会長。

昭和期の小説家・大脳生理学者

 10区1種6側3番

 木下 杢太郎
きのした もくたろう(1885〜1945)

 雑誌「明星」に官能的な詩を発表、北原白秋らと「パンの会」を起こし、雑誌「スバル」の同人となる。唯美的な洗練された感覚の象徴詩が多い。一方、東北大・東大の教授となり医学を教えた。東洋美術にも詳しくキリシタン文化研究の評論もある。

 明治・大正・昭和期の詩人・劇作家・医者

 16区1種12側3番

  木村 栄
きむら ひさし(1870〜1943)

 岩手県水沢の経度観測所の初代所長となる。従来知られていた経度変化の2つの変動成分X、Yのほかに1年周期の第3成分Zを発見した。のち水沢の万国経度変化中央局の局長となり、諸外国の経度観測も指導する学界の権威。

明治・大正・昭和期の天文学者

 23区1種22側7番

  鈴木 梅太郎
すずき うめたろう(1874〜1943)

 渡欧し、蛋白質の研究をした。帰国して盛岡高等農林学校、東大農学部教授。米ぬかからオリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功、米を使用しない合成酒、グルタミン、乳酸を製造。理化学研究所を創立。

 大正・昭和期の生化学者

 10区1種7側8番

  塚本 靖
つかもと やすし(1869〜1937)

 主に建築意匠装飾を研究、特に日光廟建築および装飾の実測研究にあたる。東大講師、助教授となる。建築学研究のため欧米に留学、帰国後教授。中国建築研究のため渡航、日英博覧会開催のため渡英、その後、朝鮮、南満を歴遊、東大工学部長。わが国建築学の権威として知られている。

 明治・大正・昭和期の建築、工芸学者

 12区1種10側1番

  朝永 振一郎
ともながしんいちろう(1906〜1979)

 理化学研究所で仁科芳雄に学び、ドイツのハイゼンベルク教授のもとで原子核理論を研究し、湯川秀樹と並ぶ素子論グループの第1人者。ノーベル物理学賞を受賞。原水爆禁止や原子力の平和利用に熱意を示し活躍した。

 昭和期の理論物理学者

 22区1種38側5番

  仁科 芳雄
 にしな よしお(1890〜1951)

 渡欧し、ラザフォード、ボーアに師事、原子物理学の理論と実験を研究。x線のクライン・仁科の公式を発表。理化学研究所主任として原子核、宇宙線の研究を進め、門下から朝永振一郎、湯川秀樹らが輩出した。また核破壊装置の建設を進め、サイクロトロンを完成させた。

 昭和期の物理学者

 22区1種38側5番

  平賀 譲   
 ひらが ゆずる
(1878〜1943)

 イギリス留学後、海軍技術研究所所長。戦艦陸奥、長門などを設計、ワシントン会議で主力艦保有量を制限されると強力な火力を装備した古鷹型重巡、夕張型軽巡などを設計した。のちに東大教授、同総長をつとめた。

 大正・昭和期の造船工学者

 23区1種2側15番

  藤原 咲平
 ふじわら さくへい(1884〜1950)

 中央気象台に入り、「音の異常伝播」の研究で学士院賞。ノルウェーに留学、極前線論の研究に従う。帰国後、中央気象台測候技術官養成所、神戸海洋気象台、東大教授を務め、第5次中央気象台長となる。戦後は執筆活動に専念した。

 大正・昭和期の気象学者

 18区2種85側17番

  三好 学
 みよし まなぶ(1861〜1939)

 ドイツに留学、プフェッファのもとで菌糸の屈性研究。東大教授。ヨーロッパの近代的な植物生理学や植物生態学をわが国に普及、その応用方面も研究。「生態学」の語を訳出。天然記念物の調査及び保護に尽力した。

 明治・大正・昭和期の植物生理・生態学者

 8区1種10側26番

  山崎 直方
 やまざき なおまさ(1870〜1929)

 帝国大学理科大学で地理学を学び、地理学研究を命ぜられてドイツ、オーストリアに留学。帰国後、東京高師、理科大教授となり、地理学科を創設、また日本地理学会を作った。地形学にも興味を持ち、日本アルプスに氷河作用があったことを主張。学術の国際交流にも尽くした。

明治・大正・昭和期の地理学者

 6区1種2側10番

  横井 時敬
 よこい ときよし(1860〜1927)

 「栽培汎論」は伝統農法の再評価と西洋農法の適用を説いた名著。福岡県立農学校に赴任、塩水選種法発明。帝国大学農科大学教授。農政理論家として活躍、資本主義と農業を対立的にとらえ、農業防衛の武士道の継承者を地主にみる農本主義を説き、また社会主義に反発し、農民教育に努力した。

 明治・大正期の農学者・農政学者

 6区1種12側12番

  吉岡 弥生
 よしおか やよい(1871〜1960)

 東京で医院開設、わが国最初の女医養成期間として、東京女子医学校創設し校長。昇格した女子医専の校長。戦時中東京婦人会委員長、大日本婦人会顧問など。敗戦後公職追放されたが、解除とともに東京女子医大(医専の後身)の学頭となった。

 明治・大正・昭和期の医者・女子教育者

 8区1種7側9番

作家・歌人・詩人・評論家・漫画家/学者(科学・医学・建築など理系)
学者(法学・政経・教育・史学・哲学など文系)/芸術家(画家・彫刻家・音楽家など)
芸能人(俳優・歌手など)/政治家・官僚・財界人・軍人

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