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更新日 2018-04-03 | 作成日 2018-04-03

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多磨霊園に眠る著名人  ア行 

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 赤塚 自得
  あかつか じとく(1871〜1936)
代々平左衛門と称し蒔絵を業とす。絵を狩野久信に蒔絵を父に学ぶ。作風は時代の傾向に醒めて自己の創意を完成し、金粉の蒔き方、器物の形状等に新味を出し、すこぶる重厚の趣きがあった。
明治・大正・昭和期の漆工家
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 浅沼 稲次郎
 あさぬま いねじろう(1898〜1960)
早大在学中に民人同盟会、建設者同盟を組織し、ロシア飢饉救済運動、軍事研究反対運動を指導。1960年に社会党委員長となり、安保改定阻止国民会議を通じて安保闘争を指導。同年10月、日比谷公会堂で3党首立会演説中、右翼テロに倒れた。
昭和期の社会運動家、政治家
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 東 龍太郎
 あずま りょうたろう(1893〜1983)
ロンドン大学に留学、体育生理学を専攻。日本におけるスポーツ医学研究の草分けとなる。東大教授。戦後日本体育協会会長、IOC委員、茨城大学長。1953年東京都知事に当選。2期在任し、オリンピックの東京開催に尽力。日本赤十字社長、全日本スキー連盟会長、日本レクレーション協会会長などを歴任。
大正・昭和期の医学者
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 阿南 惟幾
  あなみ これちか(1887〜1945)
1945年4月、鈴木貫太郎内閣の陸相となり、本土決戦論を主張、ポツダム宣言の受諾をめぐる御前会議では国体護持の立場から条件付き受諾を主張し、東郷茂徳外相らと対立した。終戦の日に自決した。
昭和期の陸軍軍人(大将)
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 阿部 真之助
 あべ しんのすけ(1881〜1964)
満州日日新聞、東京日日新聞などをへて毎日新聞に入社。社会・経済・学芸各部長・取締役を歴任。退職後は人物評論を得意とする毒舌で知られた。菊池寛賞受賞。日本放送協会会長。
大正・昭和期のジャーナリスト・評論家
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 天野 為之
 あまの ためゆき (1859〜1938)
経済学をフェノロサに学び、とくにJ・S・ミルを研究した。東京専門学校(早大)の創設に参加、以後その教職にあった。1890年大隈重信の改進党から第1回の衆議院議員に当選。町田忠治らとともに東洋経済新法を創刊した。
大正・昭和期の経済学者
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 有島 武郎
  ありしま たけお(1878〜1923)
 札幌農学校在学中、内村鑑三の指導の下に熱心なクリスチャンとなる。外遊後は母校で教鞭をとった。その間、ホイットマン、ツルゲーネフ、トルストイらに熱中し、雑誌「白樺」の同人になり、作家生活に入る。小説「或る女」「カインの末裔」、評論「愛は惜しみなく奪う」などを発表し、文壇の地位を確保した。
大正時代の小説家
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 有田 八郎
 ありた はちろう(1884〜1965)
外務省に入る。広田内閣、第一次近衛内閣、平沼内閣、米内内閣の外相となる。戦後は東京都知事選に社会党候補として出馬したが落選。 
昭和期の外交官
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 石坂 泰三
  いしざか たいぞう(1886〜1975)
逓信省をへて第一生命に入り、後に社長。戦後公職追放、解除後東芝社長。生産性本部会長、経団連会長を歴任し財界の中心的存在となった。日本原子力事業、埼玉銀行会長のほか数十社の役員を兼ねた。
大正・昭和期の財界人
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 石坂 洋次郎
 いしざか ようじろう(1900〜1986)
 教壇に立ちながら創作を始め、1927年、処女作「海をみに行く」が三田文学に掲載された。「若い人」で第1回三田文学賞を受賞。次いで「麦死なず」を発表。上京し作家生活に入り、戦後、「青い山脈」「石中先生行状記」「山のかなたに」「陽のあたる坂道」など庶民的な明るさと正義感を持つ作品を旺盛な筆力で書き続け、幅広い読者を持っていた。
昭和期の小説家
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 石渡 荘太郎
 いしわたりそうたろう(1891〜1950)
税制事務の第一人者とされ、第一次近衛内閣の大蔵次官に就任。汪兆銘政権の最高経済顧問として南京に赴任。帰国後東条改造内閣の蔵相、次の小磯内閣でも留任、さらに宮内相をつとめ、終戦前後の混乱に対処した。
 昭和期の大蔵官僚・政治家
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 井下 清
  いのした きよし(1884〜1937)
 東京市、東京都の都市公園、葬祭施設の造成、運営に携わる。都市緑化、造園一般の分野でも活躍。白澤保美からドイツのハンピエツナーによる風景墓地の研究発表を贈られ、研究の動機となる。わが国始めての公園墓地として多磨霊園の建設に携わった。
 多磨霊園創始者
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 巖谷 小波
  いわや さざなみ(1870〜1933)
尾崎紅葉らの硯友社同人として小説「初紅葉」「妹背貝」「秋の長」などを書き新進作家として知られたが、創作童話「こがね丸」を発表し新生面を開く。博文館に入社、「少年世界」の主筆となり同誌に毎号少年文学・おとぎ話を執筆し、人気を集めた。また楽天居の俳号をもつ俳人でもある。
 明治・大正期の小説家・童話作家
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 岩谷 莫哀
  いわや ばくあい(1888〜1927)
 七校から東京帝大には入る。尾上柴舟に師事。後に短歌雑誌「車前草」「水甕」「桜草」「珊瑚礁」などに関係し、のち「水甕」の経営に専心。歌集「春の反逆」「仰望」岩谷莫哀短歌全集」などがある。
 大正期の歌人
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 上杉 慎吉
 うえすぎ しんきち (1878〜1929)
 ドイツに留学、その憲法学説は穂積八束の影響が強く、君主主権による絶対主義をとる。「国体に関する異説」を発表し、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃、天皇制絶対主義勢力の理論的、実践的指導者であった。
 明治・大正期の憲法学者
 3区1種3側9番
                       
 上田 貞次郎
 うえだ ていじろう (1879〜1940)
 ドイツ、イギリスに留学。帰国後東京高商(一橋大)の教授となり、その後身である東京商大学長となる。スミス、ミルなどのイギリス経済学の影響をうけた自由主義者で、新自由主義を唱えた。晩年には人口問題の研究に新分野を開拓した。 
 大正・昭和期の経済学者
 9区1種10側3番
                       
 上原 謙
  うえはら けん(1909〜1991)
 本名は池端清亮。1935年、立教大学卒業と同時に、「若旦那・春爛漫」で松竹からデビュー。メロドラマの美男スターとして、「愛染かつら」三部作などで人気を集めた。戦後の代表作は「めし」「晩菊」「夜の河」 
 昭和期の俳優
 2区2種11側2番
                       
 宇垣 一成
  うがき かずしげ(1868〜1956)
 清浦奎吾内閣の陸相、以後加藤高明内閣、岩槻礼次郎内閣、浜口雄幸内閣の陸相となる。文麿内閣の外相兼拓相となり、対中国和平工作に従事するが、効果が上がらず、興亜院設置に反対して辞職。1953年の参院選では全国区最高点で当選した。
 大正・昭和期の陸軍軍人(大将)
 6区1種12側1番
                       
 内田 康哉
  うちだ こうさい(1865〜1936)
 第2次西園寺、原、高橋、加藤(友)各内閣の外相をつとめる。満鉄総裁に就任し、満州事変勃発後は、満鉄の輸送力を挙げて関東軍作戦行動に協力、ついで斉藤内閣の外相として「満州国」承認・国連脱退と続く国際孤立化の外交を推進した。
明治・大正・昭和期の外交官、政治家
 11区1種1側6番
                       
 内田 魯庵
  うちだ ろあん(1868〜1929)
 二葉亭四迷と親しく、ロシア文学に早くから影響をうけ、ドストエフスキーの「罪と罰」、トルストイの「復活」などを翻訳した。一方、「暮れの二十八日」「社会百面相」などの社会小説を発表。晩年は随筆を書くようになり、文芸批評や回想談などを残した。「思ひ出す人々」は回想記の傑作である。
 明治時代の評論家・小説家
 12区2種1側1番
                       
 梅原 龍三郎
 うめはらりゅうざぶろう(1871〜1936)
 浅井忠に師事。渡仏し、ルノワールに学び、二科会、春陽会、国画会の創立に参加。天性の豊潤な色彩感覚を駆使して裸婦・風景・静物画に絢爛たる作風を示した。代表作に「金の首飾り」「桜島」「竹窓裸婦」「ベスビオとナポリの街」などがある。
 大正・昭和期の洋画家
 5区1種7側43番
                       
 江戸川 乱歩
  えどがわ らんぽ(1894〜1965)
 本名平井太郎。処女作「二銭銅貨」により新進作家として認められ、「D坂の殺人事件」「心理試験」「パノラマ島奇譚」などを次々と発表。朝日新聞連載「一寸法師」の完成後、放浪の旅に出る。「陰獣」「芋虫」「押絵と旅する男」「蜘蛛男」などの作品がある。戦後は創作とともに評論・研究に力を入れ、雑誌「宝石」の編集など後進の指導に尽力した。
 大正・昭和期の探偵小説家
 26区1種17側6番
                       
 大内 兵衛
 おおうち ひょうえ (1888〜1980)
 森戸事件で東大を退いたが、復職し教授となる。教授グループ事件で有沢広巳らとともに検挙され、辞職。戦後東大に復帰。退官後、法政大総長。平和問題懇親会メンバーとして平和擁護や憲法擁護運動などにも活躍。マルクス経済学の立場から財政学を体系化する。著書に「財政学大綱」などがある。
大正・昭和期の経済学者
 6区1種11側11番
                       
 大賀 一郎
 おおが いちろう(1883〜1965)
 八高教授をへて満鉄に入社。中国東北地方の普蘭店から出土した古ハスの種子を研究。戦後、千葉県滑川出土(約1千年前)と検見川出土(約2千年前)のハスの種子の発芽に成功、検見川出土のものは開花し、大賀ハスとして知られている
 大正・昭和期の植物学者
 20区1種33側15番
                       
 大久保 一翁
  おおくぼ いちおう(1817〜1888)
 維新後、駿府に赴任。廃藩置県後、静岡知事に就任。翌年文部省に入るが政府は過渡期の東京市政を円滑に運営すべく、直ちに第5代東京府知事に任命した。幕臣として勝海舟とともに幕政の運営にあたり、また議会制を主張した先覚者でもある。
幕末、明治期の政治家
 11区1種2側3番
                       
 大辻 司郎
  おおつじ しろう(1896〜1952)
 株屋の店員を経て、活動弁士染井三郎に弟子入りし、東京浅草の帝国館で初舞台。松井翠声・徳川夢声らとともに人気を博し、奇声と珍妙な台詞でうけ、震災後、「漫談」の語を創始し、以後、寄席などに出演するようになった。日航機もく星号大島墜落事故で死亡した。 
 大正・昭和期の活動弁士・漫談師
 20区1種20側1番
                       
 大平 正芳
  おおひら まさよし(1910〜1980)
 第1次池田内閣で官房長官、第2次・第3次池田内閣の外相、以後第2次佐藤内閣で通産省、田中角栄内閣で外相、蔵相、三木内閣で蔵相となる。首相となった後、衆参ダブル選挙の選挙運動中に死去。
 戦後の政治家
 9区1種1側15番
                       
 岡田 啓介
  おかだ けいすけ(1868〜1952)
 田中義一内閣、斉藤実内閣の海相。1934年首相在任中、2・26事件で襲撃されたが、あやうく助かり、内閣総辞職。東条内閣倒壊工作では中心人物となり、天皇制存続のための和平工作を画策した。
 
 大正・昭和期の海軍軍人(大将)・政治家
 9区1種9側3番
                       
 岡田 嘉子
  おかだ よしこ(1902〜1992)
 1919年初舞台。その後、「出家とその内弟子」の芸妓楓で脚光をあびる。日活入社後、竹内良一と失踪、結婚。岡田嘉子一座を結成。1938年、杉本良吉と2人で樺太国境を越え、ソ連に入る。戦争中、対日放送のアナウンサーとなり戦後、モスクワ放送局に移る。ルナチャルスキー演劇大学卒業公演「女の一生」を演出。再々帰国し、演出、舞台出演を行い、映画「男はつらいよ」などにも出演。
 昭和期の俳優・演出家
 6区1種7側53番
                       
 岡本 一平
 おかもと いっぺい(1886〜1948)
 東京朝日新聞社に入社し、漫画を書いた。その描写は人間生活の機微に触れ、その独特な漫文とともに多くの人に親しまれ、政治漫画に一時期を画した。妻かの子は歌人・小説家。
 
 大正・昭和期の漫画家
 16区1種17側3番
                       
 岡本 かの子
  おかもと かのこ(1889〜1939)
 「明星」「スバル」に歌を発表し歌人として出発。夫の一平と欧米遊学後、小説家として死に至るまで多くのユニークな作品を書き続けた。「鶴は病みつき」「老妓抄」「生々流転」など仏教的な人生観と生命観のあふれた作風である。 
大正・昭和期の歌人・小説家
 16区1種17側3番
                       
 尾崎 秀美
  おざき ほつみ(1901〜1944)
 父の影響で中国の歴史・文化に親しむ。朝日新聞に入社、上海特派員として中国滞在中、リヒアルト=ゾルゲのコミンテルン諜報機関に参加。第1次近衛内閣の嘱託として中国政策に関与していたが、国際スパイとして検挙され、治安維持法・国防保安法・軍機保護法などの違反を理由にゾルゲとともに処刑された。
 昭和期の社会主義者・ジャーナリスト
 10区1種13側5番
                       
 小山内 薫
  おさない かおる(1881〜1928)
 詩集「夢見草」「小野のわかれ」を書く。小説家としては短編から自伝的長編小説「大川端」で才能を示す。自由劇場、築地小劇場創立。「第一の世界」「西山物語」「亭主」「奈落」などの戯曲のほか翻訳も多く、劇評家・演出家としての業績も大きい。松竹キネマに入り映画界にも足跡を残し、日本の新劇界の先駆者的存在である。 
 明治・大正期の劇作家・演出家
 5区1種1側37番
                       
 尾上 柴舟
 おのえ さいしゅう(1876〜1957)
 金子薫園と共に「叙景詩」を出版、明星派に対して叙景詩運動を進め、車前草社を結成。「静夜」「永日」「白き路」「間歩集」などの歌集がある。書家としても有名で「平安朝時代の草仮名の研究」「歌と草仮名」などの著書がある。
 明治・大正・昭和期の歌人・書家
6区1種16側23番