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更新日 2018-04-03 | 作成日 2018-04-03

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多磨霊園に眠る著名人 マ行

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 前田 多聞
  まえだ たもん(1884〜1962)
 内務省に入り、後に朝日新聞論説委員を経て、東久邇内閣の文相、田中耕太郎、山崎匡輔、関口泰ら異色の人材を起用し教育改革を推進した。幣原内閣で留任。日本育英会、日本ILO協会各会長を歴任した。
 昭和期の政治家
 16区1種3側7番
                       
 前田 夕暮
  まえだ ゆうぐれ(1883〜1951)
 上京し尾上柴舟に師事。白日社を創立。処女歌集「収穫」を出版、自然主義の歌人として知られた。「詩歌」創刊、「陰影」「生くる日」「深林」などの歌集を出す。北原白秋らと「日光」を創刊し随筆を書き、一時休刊していた「詩歌」を復刊。口語自由律短歌を提唱、つねに老成を拒否し続けた歌人として知られる。
 明治・大正・昭和期の歌人
 12区1種10側21番
                       
 牧野 虎雄 
  まきの とらお
 東京美術学校在学中黒田清輝、藤島武二の指導をうけ、卒業後「紅葉の下湯」「渓流に水浴」などが文展特選に入る。多摩美術学校(多磨美大)を創立した。
 大正・昭和期の洋画家
 7区2種5側1番
                       
 松岡 映丘
  まつおか えいきゅう(1881〜1938)
 美校入学以前すでに橋本雅邦に入門。のちに山名貫義に入門、大和絵を学ぶ。卒業後、大和絵の真髄を作品に生かすことに心を注ぎ、色調、構図の上に典雅な情緒をそえた。文展に「室君」を出品。結城素明らと金鈴社を組織、国画院を結成した。代表作に「燈籠大臣」「右大臣実朝」などがある。
 大正・昭和期の日本画家
 10区1種13側19番
                       
 三島 由紀夫
  みしま ゆきお(1925〜1970
 学習院中等科在学中に「花ざかりの森」を出版。戦後、川端康成の推薦で「煙草」「岬にての物語」などを発表。「仮面の告白」「愛の渇き」などで作家的地位を得た。「禁色」「潮騒」「金閣寺」「近代能楽集」などを発表。楯の会を結成、同会の学生らと市ヶ谷の自衛隊に乗り込み割腹自殺した。
 戦後の小説家・劇作家
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 箕作 麟祥
  みつくりりんしょう(1846〜1897)
 祖父に蘭学を学ぶ。徳川昭武に随行して渡仏。維新後明治政府に仕え、太政官大書記、元老院議官、司法次官、貴族院議員、行政裁判所長官、和仏法律学校校長を歴任。わが国にフランス法を紹介・移入し、また民法・破産法・商法編纂委員となり、明治民法・商法編纂に貢献した。
 昭和期の洋学者・法学者
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 満谷 国四郎 
  みつたに くにしろう(1874〜1936)
 渡仏、ジャン=ポール=ローランスに学び帰国後太平洋画会の創立に参加。再び渡欧してからは後期印象派やキュービズムの影響を受け、以前の写実的な画風からは大きく変化した。また大正末期頃から数回中国へ渡り、以後次第に装飾的な描写をするようになった。
 明治・大正・昭和期の洋画家
 21区2種19側12番
                       
 水上 滝太郎
 みなかみ たきたろう(1887〜1940)
 慶大在学中三田文学が創刊されると、「山の平の子」を発表、新進作家として知られる。渡米し経済学を学び、帰国後保険会社に勤務、大阪に住む。「大阪」「大阪の宿」などの作品はその体験から生まれた。評論、随筆、小説、戯曲を書き続け、生涯実業家と文学者の両面の生活を続けた。
 明治・大正・昭和期の小説家・評論家
 5区1種16側6番
                       
 美濃部 達吉
  みのべ たつきち(1873〜1948)
 渡欧後、東大教授、比較法制史(のち憲法)を担当。天皇機関説を唱えた。総帥権問題について進言、政府はそれにもとづき軍縮条約に調印。軍部の恨みをかった。機関説問題は政治問題となり、不敬罪で告発され、著書は発禁、貴族院も辞した。日本国憲法の草案の審議にたずさわった。
 明治・大正・昭和期の憲法学者
 25区1種24側1番
                       
 美濃部 亮吉
  みのべ りょうきち(1904〜1984)
 美濃部達吉の長男。卒業後東大助手、講師をへて法大教授。人民戦線事件で検挙されて辞任。戦後東京教育大教授。東京都知事選に革新統一候補として立候補し、当選。1967年以後3期つとめた。
 昭和期の経済学者・東京都知事
 25区1種24側1番
                       
 三宅 やす子
  みやけ やすこ(1890〜1932)
 昆虫学者三宅恒方と結婚。夏目漱石などに師事し小説を学ぶ。夫を失い文筆で子供を育てる決心をし、私小説的作品や評論を書く。雑誌ウーマン・カレントを創刊。主婦の立場から女性問題を平易かつ自由率直に論じ、執筆、講演に活躍。小説では「奔流」が代表作。評論集に「未亡人論」「生活革新の機至る」などがある。
 大正・昭和期の小説家・評論家
 8区1種16側34番
                       
 三好 十郎
  みよし じゅうろう(1902〜1958)
 在学中早稲田文学に詩を発表。処女戯曲「首を切るのは誰だ」を発表、全日本無産者芸術連盟に参加、プロレタリア劇作家として知られたが、社会的リアリズムと呼ぶ創作方法をとる彼は組織から離れた。「斬られの仙太」「浮標」「をさの音」「獅子」、戦後も「崖」「廃墟」「その人を知らず」「炎の人」などを書いた。
 大正・昭和期の詩人・劇作家
 18区1種36側22番
                       
 三好 学
  みよし まなぶ(1861〜1939)
 ドイツに留学、プフェッファのもとで菌糸の屈性研究。東大教授。ヨーロッパの近代的な植物生理学や植物生態学をわが国に普及、その応用方面も研究。「生態学」の語を訳出。天然記念物の調査及び保護に尽力した。
明治・大正・昭和期の植物生理・生態学者
 8区1種10側26番
                       
 向田 邦子
  むこうだ くにこ(1929〜1981)
 映画雑誌編集記者となり、テレビドラマの台本からテレビドラマの脚本に転向。ラジオの「森繁の重役読本」、テレビの「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「だいこんの花」等がある。小説も書きはじめ「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で直木賞受賞、他に「あ、うん」「父の詫び状」「思い出トランプ」などがある。誰も気づかずにいる人間模様の一場面を切り取り一枚の絵として写し出す名人芸の持ち主と定評がある。台湾で飛行機事故のため死去。
 昭和期の放送作家・小説家
 12区1種29側52番
                       
 森 槐南
  もり かいなん(1863〜1911)
 鷲津毅堂・三島中州等に師事。父からも漢詩を学び、明詩風の市を作った。随鴎吟社をおこし、諸新聞に健筆をふるった。宮内大臣秘書官、式部官を歴任。伊藤博文がハルビンで暗殺されたとき、随行していて負傷した。
 明治期の古注学者・漢詩人
 14区1種3側3番