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更新日 2018-04-03 | 作成日 2018-04-03

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多磨霊園に眠る著名人 タ行

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 高橋 是清
  たかはし これきよ(1854〜1936)
 販留学生として渡米、帰国後文部省にはいる。のちに日本銀行に入り、日露戦争中から戦後にかけて外債募集に成功、日銀総裁になる。山本内閣の蔵相となり、原敬首相暗殺後首相となる一時政界を離れたが、昭和初期の金融恐慌には日本経済安定のため尽力した。2・26事件で暗殺された。
 明治・大正・昭和期の政治家・財政家
 8区1種2側16番
                       
 田中 義一
  たなか ぎいち(1853〜1929)
 日露戦争に従軍後、ロシアに留学、日露戦争では満州軍参謀。原、山本内閣の陸相」、のちに政友会総裁となり首相となる。普通選挙による最初の総選挙を実施、また、3次にわたる山東出兵を強行。張作霖爆死事件の際、辞職した。
 明治・大正期の軍人(大将)・政治家
 6区1種16側14番
                       
 田山 花袋
  たやま かたい(1871〜1930)
 尾崎紅葉を知り文学を志す。はじめは浪漫的な小説を書き、のちに「重右衛門の最後」で自然主義に系統、「布団」発表後は島崎藤村の「破戒」と並び自然主義文学の代表となる。私小説、心境小説の第一人者、ほかの著書に「田舎教師」「妻」等がある。
 明治・大正期の小説家
 12区2種31側24番
                       
 塚本 靖
 つかもと やすし(1869〜1937)
 主に建築意匠装飾を研究、特に日光廟建築および装飾の実測研究にあたる。東大講師、助教授となる。建築学研究のため欧米に留学、帰国後教授。中国建築研究のため渡航、日英博覧会開催のため渡英、その後、朝鮮、南満を歴遊、東大工学部長。わが国建築学の権威として知られている。
 明治・大正・昭和期の建築、工芸学者
 12区1種10側1番
                       
 ディック ミネ
  (1908〜1991)
 本名三根徳一。立大在学中にギターを習い、シンフォニックバンドを結成、卒業時には一流のスタジオプレイヤーになっていた。古賀政男のすすめでテイチク入社、「ダイナ」でデビュー。「黒い瞳」「上海リル」も大ヒット。「人生の並木道」「旅姿三人男」の演歌路線でも成功。和製ポップスの草分けからナツメロ歌手の総帥として活躍。
 昭和期の歌手
 11区1種14側17番
                       
 東郷 平八郎
 とうごう へいはちろう(1847〜1934)
 薩英、戊辰戦争に参加。イギリス留学。日露戦争時には、旅順港封鎖作戦を行い、ロシア海軍極東艦隊を公開海域で、バルチック艦隊を日本海海戦で全滅させた。ロンドン軍縮条約の承認にあたり強硬に反対。軍の元老的存在であった。のち東宮学問所総裁になった。 
 明治・大正期の海軍(元帥)
 7区特種1側1番
                       
 戸川 秋骨
  とが しゅうこつ(1870〜1939)
 島崎藤村・北村透谷らと「文学界」を創刊。一方東大英文専科に学び、山口高校教授。その後欧米に留学、帰国して慶大教授となる。早くから翻訳家として知られ、「エマーソン論文集」や「哀史」(レーミゼラブル)「十日物語(デカメロン)」は広く読まれた。
 明治期の評論家・英文学者
 21区1種24側16番
                       
 徳川 夢声
  とくがわ むせい(1894〜1971)
 入試に落ち、大正の初め映画の説明者(活弁)となる。外国映画の説明を主に受け持ち、淡々と文学的に説明しインテリ層の支持を受けた。映画はトーキーの時代となり失業。戦後、漫談、著述などに活躍する。
 大正・昭和期の芸能家・随筆家
 2区1種7側48番
                       
 徳田 球一
  とくだ きゅういち(1894〜1955)
 日本共産党の指導者。苦学して弁護士になるとともに社会運動に参加。日本共産党創立に参加した。3・15事件で検挙、18年間投獄される。戦後出獄、野坂参三らと日本共産党を再建。衆院議員に選出されたが、マッカーサーに追放され、地下潜行、中国に亡命、北京で客死した。
 大正・昭和期の社会運動家
 19区1種31側2番
                       
 徳富 蘇峰
  とくとみ そほう(1863〜1957)
 熊本洋学校、同志社大に学ぶ。上京して民友社を創立、雑誌「国民の友」「国民新聞」を創刊。進歩的平民主義の立場に立つジャーナリストとして知られた。貴族院議員となったが、その後政界を離れ、評論家として活躍。主著に「近世日本国民史」がある。小説家徳富蘆花は弟である。
 明治・大正・昭和期の評論家
 6区1種8側13番
                       
 徳永 直
  とくなが すなお(1899〜1958)
 共同印刷争議で指導的メンバーとして活躍。この体験に基づく長篇小説「太陽のない街」で労働者出身のプロレタリア作家として一躍注目を集めた。全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加。戦後「妻よねむれ」「静かなる山々」などを発表した。
 昭和期の小説家
 19区1種24側17番
                       
 床次 竹次郎
  とこなみ たけじろう(1866〜1935)
 鉄道院総裁、このとき政友会入りして現職官吏の入党と話題になる。原敬、高橋是清内閣で内相。原没後政権への志向を強め、声優本当結成、いったん憲政会に合流、民政党発足させるが脱党。第3党の樹立計画も挫折し、政友会に復帰。犬養内閣鉄道相、岡田内閣の逓信相となる。
 大正・昭和期の官僚・政治家
 12区1種17側18番
                       
 戸坂 潤
 とさか じゅん(1900〜1945)
 大谷大教授の頃、新カント主義的立場からマルクス主義的立場に移る。上京し法大講師となるが、思想不穏の理由で免職。唯物論研究会を創立、事務局長として、軍国主義に抵抗し、科学的精神を擁護、普及する運動に取り組む。治安維持法により検挙、長野で獄死した。
 昭和期の哲学者
 25区1種18側32番
                       
 朝永 振一郎
 ともながしんいちろう(1906〜1979)
 大谷大教授の頃、新カント主義的立場からマルクス主義的立場に移る。上京し法大講師となるが、思想不穏の理由で免職。唯物論研究会を創立、事務局長として、軍国主義に抵抗し、科学的精神を擁護、普及する運動に取り組む。治安維持法により検挙、長野で獄死した。
 昭和期の理論物理学者
 22区1種38側5番