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更新日 2018-04-03 | 作成日 2018-04-03

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多磨霊園に眠る著名人 ナ行

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 中島 敦
    なかじま あつし(1909〜1942)
 喘息と闘いながら「山月記」などを執筆。「古潭」「光と風と夢」が深田久弥の推薦で発表され、後者は芥川賞候補に上り作家として一躍注目されたが、その年末に病死した。不幸な作家であったが没後「李陵」等の遺稿が発表され、評価が高まった。
 昭和期の小説家
 16区2種33側11番
                       
 中島 知久平
    なかじま ちくへい(1884〜1949)
 中島飛行機(株)を創立、戦争拡大とともに軍用機生産で社業拡張、戦闘機隼はじめ飛行機の3割近くを独占生産。この間政界にも進出し、政友会を二分して革新派の総裁になる。終戦直後、東久邇内閣で軍需相、商工相。
 大正・昭和期の実業家・政治家
 9区1種2側3番
                       
 永田 錦心
    ながた きんしん(1885〜1927)
 美声で豪壮な芸風をもって知られ、大正時代には高峰筑風とならんで当代の二名人と言われた。みずから薩摩琵琶の錦心流という一派を立てて多くの門下を擁し、琵琶が演芸としてもてはやされた時代に華やかな生涯を閉じた。
 明治・大正期の琵琶師
 2区1種13側10番
                       
 中野 正剛
    なかの せいごう(1886〜1943)
 記者時代護憲運動に活躍、東方時論の主筆、後に社長。憲政会、民政党と少壮派として頭角を現わす。国民同盟を結成、その頃から急進ファシズムへと走る。同盟大会後、翼賛会からも離れる。反東条色を強め、倒閣企図の理由で検挙、釈放直後に割腹自殺した。
 大正・昭和期の政治家
 12区1種1側2番
                       
 中村 歌右衛門
   なかむら うたえもん(1865〜1940)
 明治の団菊、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎亡き後の歌舞伎界を統率。また坪内逍遙作「桐一葉」で淀君を演じ、新境地を開いた。
 歌舞伎俳優(5代目)
 2区1種13側5番
                       
 中村 不折
    なかむら ふせつ(1866〜1943)
 はじめ南画を志したが、十一字会研究所に入り、浅井忠に洋画を学ぶ。太平洋画会に属す。代表作には「八重の湖路」「建国剏業」がある。書家としても有名。中国の古文物をおさめた書道博物館を設立。森鴎外が自分の墓の文字は不折の書を刻むことを遺言。
 明治・大正期の洋画家
 3区1種15側10番
                       
 中山 晋平
    なかやま しんぺい(1887〜1952)
 カチューシャの歌を作曲、松井須磨子が復活の劇中で歌ってヒットし、流行歌や童謡の分野で成功するきっかけとなった。作品は、「波布の港」「出船の港」「てるてる坊主」「砂山」「雨ふりお月さん」など哀調をおびたものに傑作が多いが、「鉾を収めて」「証誠寺(木更津にある寺の名前)の狸囃子」などの明るい歌もある。
 大正・昭和期の作曲家
 21区1種6側3番
                       
 南原 繁
   なんばら しげる(1889〜1974)
 内務省退職後、渡欧、帰国して東大教授となり政治学を講じる。内村鑑三の無教会派プロテスタントで、自由主義的立場を守り戦時中も軍部に迎合しなかった。戦後東大総長。講話問題では吉田茂首相と対立。憲法問題研究会に参加、護憲の学問的支柱となった。
 大正・昭和期の政治学者
 3区2種11側2番
                       
 仁科 芳雄
    にしな よしお(1890〜1951)
 渡欧し、ラザフォード、ボーアに師事、原子物理学の理論と実験を研究。x線のクライン・仁科の公式を発表。理化学研究所主任として原子核、宇宙線の研究を進め、門下から朝永振一郎、湯川秀樹らが輩出した。また核破壊装置の建設を進め、サイクロトロンを完成させた。
 昭和期の物理学者
 22区1種38側5番
                       
 新渡戸 稲造
    にとべ いなぞう(1862〜1933)
 札幌農学校卒業、東大中退後渡米、帰国後札幌農学校教授、京大教授、一高校長、東京女子大学長などを歴任。国際連盟事務局次長など国際人としても活躍。またクリスチャンとして国際親善に貢献した。著書に「農業本論」「修養」特に英文の武士道は有名である。
 明治・大正・昭和期の教育者
 7区1種5側11番
                       
 根津 嘉一郎
    ねづ かいちろう(1860〜1940)
 上京し漢学者馬杉雲外の門下に入る。帝国石油設立し社長。ほかに交通、製粉、ビールなどの会社の社長を歴任。その後、徳富蘇峰の国民新聞の社長をひきうけた。むさい高校、根津化学研究所を創立。没後、古美術のコレクションをもとに根津美術館が設立された。
 明治・大正・昭和期の政治家・実業家
 15区1種2側10番
                       
 野村 胡堂
    のむら こどう(1882〜1963)
 報知新聞社に入社、同誌に人物評論、小説を発表。代表作銭形平次捕物控は昭和6〜32年の間書き続けられた。野村学芸財団を設立。また、レコード収集家、音楽評論家としても知られ、「ロマン派の音楽」「バッハからシューベルト」などの著書がある。
 昭和期の小説家・音楽評論家
 13区1種1側3番