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更新日 2018-04-03 | 作成日 2018-04-03

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多磨霊園に眠る著名人 ヤ/ワ行

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 矢島 楫子
  やじま かじこ(1883〜1925)
 上京して教員伝習所に学ぶ。小学校、女学校教員、桜井女学校校長。キリスト教徒となり日本基督教婦人矯風会創立。女子学院院長。廃娼運動に奔走、国際軍縮会議参加。晩年も婦人参政権獲得期成同盟会に加盟、生涯を女子教育、婦人運動に尽くした。
 明治・大正期の女子教育者
 3区1種1側20番
                       
 安井 誠一郎 
  やすい せいいちろう(1891〜1962)
 内務省に入り、県警部長、東京市局長、宇垣一成が朝鮮総督となるとその秘書官、局長京畿道知事、拓務相局長、新潟県知事。退官して東京市電気局長となる。戦後、厚生次官、東京都長官に起用され、1947年東京都知事に立候補、当選、3期つとめた。
 昭和期の官僚
 2区1種2側37番
                       
 安井 てつ
  やすい てつ(1870〜1945)
 卒業後母校(東京女子高師)に勤め、イギリス留学、帰国して教授と舎監を兼任。イギリス再留学後、東京女子大の学監、学長を歴任。退職後東洋英和女学校校長となった。
 明治・大正・昭和期の女子教育者
 15区1種10側7番
                       
 矢内原 忠雄
  やないはら ただお(1893〜1961)
 一高時代から内村鑑三及び新渡戸稲造に私淑し、信仰上、思想上大きな影響を受けた。東大助教授、教授となり植民政策を講義。1937年中央公論に発表した「国家の理想」が反戦思想として右翼、軍部等の攻撃の的となり、その年辞職。戦後東大に復帰、社会科学研究所初代所長、経済学部長、教養学部長を歴任し、総長となる。東大ポポロ事件の際は警察に対し毅然たる態度を示し、激動期の大学の自治と学問の自由を守るため努力した。
 大正・昭和期の経済学者
 2区2種1側19番
                       
 山崎 直方
  やまざき なおまさ(1870〜1929)
 帝国大学理科大学で地理学を学び、地理学研究を命ぜられてドイツ、オーストリアに留学。帰国後、東京高師、理科大教授となり、地理学科を創設、また日本地理学会を作った。地形学にも興味を持ち、日本アルプスに氷河作用があったことを主張。学術の国際交流にも尽くした。
 明治・大正・昭和期の地理学者
 6区1種2側10番
                       
 山下 奉文
  やました ともゆき(1885〜1946)
 陸大卒業後参謀本部付、ヨーロッパ駐在後北支那方面軍参謀長、航空創刊など歴任。2・26事件の時帰順勧告書作成。関東防衛軍司令官、第1、2方面軍司令官。シンガポール占領の時パーシバル将軍に降伏を迫った。戦後バターン死の行進の責任を問われ、処刑。
 昭和期の陸軍軍人(大将)
 16区1種8側6番
                       
 山本 五十六
  やまもと いそろく(1884〜1943
 日露戦争従軍後、軍艦乗組をへて砲術学校教官。ハーバード大に学ぶ。海軍教官、第1次航空戦隊司令官等を歴任後、連合艦隊司令長官となり、旧来の海軍の作戦に変更を加え、また米・英不可分を主張し、対米戦を無視した対南方武力行使は不可能であると考え、ハワイ真珠湾作戦を立案。ソロモン諸島上空で戦死した。 
 大正・昭和期の海軍軍人(元帥)
 7区特種1側2番
                       
 横井 時敬
  よこい ときよし(1860〜1927)
 「栽培汎論」は伝統農法の再評価と西洋農法の適用を説いた名著。福岡県立農学校に赴任、塩水選種法発明。帝国大学農科大学教授。農政理論家として活躍、資本主義と農業を対立的にとらえ、農業防衛の武士道の継承者を地主にみる農本主義を説き、また社会主義に反発し、農民教育に努力した。
 明治・大正期の農学者・農政学者
 6区1種12側12番
                       
 横光 利一
  よこみつ りいち(1898〜1947)
 菊池寛を知り文芸春秋創刊の時同人、「日輪」を発表。川端康成らと「文芸時代」を創刊、伝統的私小説とプロレタリア文学に対抗し新しい感覚的表現を主張。「機械」「寝園」「紋章」では自意識過剰に悩む知識人を心理主義的手法や四人称の設定によって追求、また「家族会議」などを発表。
 昭和期の小説家
 4区1種39側16番
                       
 与謝野 鉄幹
  よさの てっかん(1873〜1935)
 落合直文に師事、歌論「亡国の音」で旧派の短歌を痛烈に批判。雑誌「明星」創刊、晶子と結婚し、ともに明星は浪漫主義運動の中心となる。多くの俊才がここに集まった。歌は雄壮で男性的であった。渡欧後慶大教授として国文学、国文学史を講じた。文化学院創設。「日本古典全集」や「鴎外全集」等の編集にも尽力した。
 明治・大正期の歌人・詩人
 11区1種10側14番
                       
 与謝野 晶子
  よさの あきこ(1878〜1942)
 上京し処女歌集「みだれ髪」を出版、鉄幹と結婚。青春の情熱と人間讃歌を歌いあげ、明星派の中心的存在となる。合著詩歌集「恋衣」を出版、これには反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が収められている。小説、童話、感想文など多方面で活動、「新訳源氏物語」出版、教育、婦人、社会問題に関する著述も多く、文化学院で教鞭もとった。
 明治・大正期の歌人・詩人
 11区1種10側14番
                       
 吉岡 弥生
  よしおか やよい(1871〜1960)
 東京で医院開設、わが国最初の女医養成期間として、東京女子医学校創設し校長。昇格した女子医専の校長。戦時中東京婦人会委員長、大日本婦人会顧問など。敗戦後公職追放されたが、解除とともに東京女子医大(医専の後身)の学頭となった。
 明治・大正・昭和期の医者・女子教育者
 8区1種7側9番
                       
 吉川 英治
  よしかわ えいじ(1892〜1962)
 各種職業を転々としながら小説を書き講談社の懸賞小説に当選。大阪毎日新聞に連載した「鳴門秘帖」で大衆文壇にゆるがぬ地位を得る。「万歌地獄」「江戸三国志」「燃える富士」など発表。朝日新聞に「宮本武蔵」を連載。敗戦後も「高山右近」「平将門」「新・平家物語」「新水滸伝」「私本太平記」などを書いた。
 昭和期の小説家
 20区1種51側5番
                       
 吉田 絃次郎
  よしだ げんじろう(1886〜1956)
 島村抱月の推薦で小説「磯ごよみ」発表後、早稲田文学やホトトギスに作品発表。「島の秋」が出世作となった。早大で英文学を講じるかたわら小説、戯曲、感想文をハッヒョウ、人生の悲哀、生の寂寥感を詠嘆的抒情でとらえた陶酔的美文は名文として一世を風靡した。「小鳥のくる日」「草光る」「静かなる土」「大阪城」などがある。
 大正・昭和期の小説家・劇作家・随筆家
 14区1種1側6番
                       
 吉野 作造
  よしの さくぞう(1878〜1933)
 欧米留学後発表した「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」は大正デモクラシーの理論的基礎となる。朝日新聞社入社、連載記事が筆禍を受けて退社、明治文化研究会設立、また東大新人会、社会民衆党の結成などに活躍した。
 明治・大正・昭和期の政治学者
 8区1種13側18番
                       
 渡邊 錠太郎
 わたなべじょうたろう(1874〜1936)
 陸大卒業後、1903(M36)歩兵第36連隊中隊長として、日露戦争に出征。 大本営参謀を務めた後、軍事研究のためドイツに派遣され、09以降、ドイツ大使館・オランダ公使館付武官。 22(T11)以降参謀本部第4部長、航空本部長、軍事参議官等の要職を歴任。35(S10)真崎甚三郎の更迭後、教育総監に就任。 統制派の頭目とみなされ、皇道派と統制派の派閥抗争もからんでいた36の2・26事件のとき、青年将校によって暗殺された。   
 大正・昭和期の陸軍軍人(大将)
 12区1種10側15番